「葬送旅日記」 過去日記 

 

 

 

「せつな」さん「葬送旅日記」の過去日記です。

晩秋の播州を行く(兵庫県)

書寫山圓教寺摩尼殿
書寫山圓教寺摩尼殿

姫路市にある書寫山圓教寺(しょしゃざんえんきょうじ)は平安中期に性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた天台宗の修行道場です。性空上人は霊験がある方で徳も高かったのでしょう。都から離れたこの地まで法皇や貴族が参詣に訪れたそうです。

 

ロープウェイで山上に登り、山間に点在している寺院を巡ります。「西の比叡山」と言われていますが、比叡山より規模は小さいです。比叡山はバスが巡回していますが、ここは徒歩で巡るので参拝というよりハイキング、オリエンテーリングに近くなります。上り下りが結構きつく、寺社巡りをするなら足腰が丈夫なうちに、と言われるのもよくわかります。西国三十三カ所観音霊場の二十七番なので巡礼者もたくさんいました。

 

今年4月、改修時に開山堂の床下から性空上人の遺骨が発見されました。その写真が食堂(じきどう)に展示されていましたが、骨壺は金襴の布で包まれ紐でぐるぐる巻きにされていました。布は金襴の面影なく茶色になっていましたが、大事に大事に扱われていたことがわかります。

 

最近お寺の経営が大変だという話をよく聞くので、お寺に行くとまずこのお寺の経済状況は?と考えてしまいます。巡礼の札所になっていればラッキー。御朱印集めはスタンプラリーですから、ひとたび始めたらやめられなくなります。これにはまった人たちが末永く訪れてくれるでしょう。

圓教寺は映画『ラストサムライ』のロケ地になったり、瓦供養を募ったり、「もみじまつり」をやったりと積極的な活動をしているので将来はまず安泰だと思います。

浄土寺浄土堂
浄土寺浄土堂

 

加古川から加古川線で北上した小野市の浄土寺には来迎の阿弥陀三尊像があります。来迎とは臨終時に西方極楽浄土から阿弥陀如来が観音・勢至菩薩とともに迎えに来てくれることです。

ここは人影がなく、ほんとうに見学できるのだろうかと心配になったくらいです。国宝なのにちょっと寂しい…。建物にも傷みが見えます。浄土堂裏に入口を発見して中に入ると薄暗い中、巨大な阿弥陀三尊像がそびえ立っていました。阿弥陀仏は5.3メートルもあります。

 

仏師快慶作。建造当時は金色に輝いていたのでしょうが、今は大分はがれて鈍く光っています。天井から放射状に走っている垂木(たるき)は鮮やかな朱色。仏像の後ろから西日が差しこむと、堂内が浄土のように光溢れ、阿弥陀仏の光背が輝き…と効果的な演出がされています。大きな像の足元に坐って見上げれば、阿弥陀様が「死ぬのはこわくないですよ、大丈夫いらっしゃい」と浄土に迎え取ってくれそうな気がしてきます。こちらから浄土に行くのではなく、お迎えがあるというのは死の床にある人にどんなにか安堵感を与えたことでしょう。ここは浄土往生のシミュレーションをする場だったのです。(遺影禁止のためネットで画像参照)


浄土寺裏山八十八カ所巡り
浄土寺裏山八十八カ所巡り

このお寺にはもうひとつ面白い仕掛けがありました。江戸時代にできたという「浄土寺裏山八十八カ所巡り」。当時流行っていた四国遍路に行けない人のために地元の人たちが造ったようです。八十八の祠(ほこら)にゆっくりお参りしながら巡って1時間ぐらいでしょうか。初夏には紫陽花が美しいそうです。お年寄りや子ども連れにぴったりの素敵な仏教ワールドでした。

 

このお寺の開祖重源(ちょうげん)上人は東大寺を再興した勧進聖です。勧進聖は全国を巡ってお布施を調達しました。人々は限られた生活の糧の中からお布施をするのですから、するにふさわしい人格と教えをもった人でなければ務まりません。

 

重源さんは61歳 から勧進を始めて東大寺を再興したのですから、すごいエネルギーがあった方です。今は勧進など怪しまれてできませんから観光で来てもらう仕掛けが必要で す。このお寺にはいい仕掛けがあるのですが、経営はかなり苦しいと思います。この素晴らしい仏様と裏山をもっとたくさんの人に見てほしいと思いました。

 

厄神駅
厄神駅

 

加古川線に「厄神(やくじん)」という駅がありました。疫病神を連想してすごい名前だなあと驚いたのですが、厄神には厄をもたらす悪い神と厄除けの善い神がいて、この名は近くの「宗左の厄神さん」という厄除けの八幡様からきているそうです。それを知ったら駅の看板がありがたく見えてきました。

     

永平寺(福井県)

永平寺への道
永平寺への道

国内の主要なお寺は大体巡っていますが、大本山では永平寺がまだでした。先日その永平寺にようやく行くことができました。

永平寺は日本曹洞宗の開祖道元が760年前に開いた座禅修行の道場です。道元の『正法眼蔵』はむずかしそうで読む気にもなりませんが、人となりは映画『禅』で少し身近になりました。

 

道元は南宋に留学して帰国後、京都に興聖寺を開きましたが、比叡山からの弾圧を受け、越前の地頭・波多野義重の招きでこの地に永平寺を開きました。

永平寺といえば修行僧が雪の中、山道を上っていくイメージがあり、奥深い山の中を想像していましたが意外と人家に近く、比叡山や高野山に比べるとこぢんまりしていました。鬱蒼と茂る杉木立の山の斜面に古色蒼然とした七堂伽藍が建っています。

禅宗では日常生活すべてが修行で、観光客の案内も修行僧の仕事です。今年入門したばかりの修行僧が堂内の説明をしつつ修行生活について話してくれました。

七堂伽藍(山門、仏殿、僧堂、庫院、東司、浴室、法堂)の中の僧堂、東司(トイレ)、浴室は三黙道場といって一切私語は禁止されています。

 

朝はお粥、昼は一汁一菜、夜は一汁二菜の精進料理で肉魚などタンパク質はなし。いつも空腹だそうです。ご飯のおかわりができるときがあるのでこの時たくさん食べることはできますが、脚気(かっけ)になる率が高くなります。このお坊さんも入門してすぐ脚気になったのでご飯を控えて治したそうです。空腹か脚気か二者択一だと言っていました。

 

「座して半畳、臥して一畳」ですから、夜は自分の畳からはみ出ないように縦に二つ折りした蒲団二枚を重ねて紐でしばり、寝袋状にした柏蒲団(形が柏餅に似ている)に潜り込んで寝ます。手も足も出ないとはこのことです。夏も冬もこの姿。今年の夏は永平寺といえども暑かったでしょうね。

 

修行僧の袈裟は夏物で涼しげに見えますが結構重いというので実際に触らせてもらいましたが、ほんとうに見かけよりずっしりしています。法要のときのなどの袈裟は十二単衣並みだそうで、衣食住すべてが修行というのが納得できました。

このお坊さん、「今年の大晦日の『ゆく年くる年』の除夜の鐘は私が撞いているかもしれませんよ、見てくださいね」と若者らしいアピールも忘れません。

 

特別拝観ということで禅師様(貫首・宗門のトップ)の居室も見ることができました。豪華な造りです。堂内で禅師様が説法するときなどに座る場所は一段高くなっていて、背景に四季のふすま絵、厚い朱の座布団に、ぼんぼりが両脇にあってまるでお内裏様の座のようです。禅宗というと質素な印象があったので、意外な感じがしました。道元さんはこんな特別な席に座っていなかっただろうな、と思いました。


宮崎奕保師のお墓
宮崎奕保師のお墓

修行僧にとって禅師様は雲の上の人で、直接話すこともできません。元は師弟の関係だったのが、だんだんと師を聖化していって神仏のように崇める対象にしていったのでしょう。トップにはカリスマ性がないと人はついていかないのだと思います。

 

一昨年、七十八世宮崎奕保(えきほ)師が106歳で亡くなり、福山諦法師が75歳の若さで跡を継がれました。75歳といえば一般では高齢者ですが、この世界では若いのです。先ごろ亡くなった浄土宗門跡の坪井俊英師は95歳でした。数年前知恩院でお見かけしたときは杖をついてお勤めに出られていました。この道でトップになるには長寿が第一条件です。

苔むした無縁墓
苔むした無縁墓

門外の永平寺川を渡ったところに道元像や歴代住職のお墓がある寂光苑があります。歴代のお墓が並ぶ光景は壮観で、何百年も法灯が受け継がれてきたことが実感できます。どれもいたって普通のお墓。古いのは字も読みとれないぐらい風化しています。苔むして角が取れたお墓は聖人としての重荷を下ろしてほっとしているように見えました。いちばん新しいのが宮崎奕保師のお墓です。苔むしたというより苔を帽子のようにかぶったような無縁墓もあり、石もやがて自然に還っていくのだなと思いました。

吉田寺(奈良県)

吉田寺本堂
吉田寺本堂

斑鳩(いかるが)に「ぽっくり往生の寺」があると聞いたので行ってみました。法隆寺の近くです。

 

ここの本尊・丈六阿弥陀如来の前で祈祷を受けると長く病み患うことなく、下の世話にもならず安らかに極楽往生できるとのこと。自分は祈祷を受けるつもりはありませんが、さぞかしたくさんの人がお参りに来ているだろうな、その風景を撮って「葬送旅日記」に載せよう、と意気込んで猛暑のなか訪れました。

吉田寺の多宝塔
吉田寺の多宝塔

吉田寺(きちでんじ)は『往生要集』を著した平安時代の天台僧・恵心僧都源信が永延元年(987)に開山したと伝えられています。ぽっくり往生のいわれは、恵心僧都が母の臨終の際、魔除けの祈願をした衣服を着せたところ、何の苦しみもなく往生をとげたというところからきているそうです。

 

法隆寺駅から炎天下を徒歩20分。たどりついた吉田寺は竹やぶに囲まれたこぢんまりとした静かなお寺でした。境内はひっそりとしていて誰もいません。30分経っても誰も来ません。暑いのでお年寄りは外出を控えているのかもしれません。平日だからでしょうか。

今日のお言葉
今日のお言葉

諦めて帰ることにしました。「ぽっくり寺にお参りをするお年寄りたち」を勝手に想像してストーリーを創り上げていたのがよくなかった、まるでやらせ番組の制作者みたいだ…と反省しつつ飛び乗った奈良交通のバスで面白いものを発見しました。

 

座席の背に貼られたペット霊園の広告で、「出会いは偶然。別れは必然」とあります。そう、そうなんです。真理をついています。「今日のお言葉」として日記に書いておきましょう。

 


珍皇寺(京都府)

六道珍皇寺本堂
六道珍皇寺本堂

通称「六道さん」と呼ばれる六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、京都の東山、祇園近くの松原通りにあります。平安時代の葬送地・鳥辺野(とりべの)へ死者を運ぶ際にここで野辺送りの法要が行われたため、この辺りはこの世とあの世の境界の「六道の辻」と言われるようになりました。

六道とは仏教で迷いあるものが輪廻するという、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の6つの世界をさし、人は死後、生前の善悪の業によりこのいずれかに行くとされます。もちろん地獄には行きたくないし、行かせたくないのでせっせと善行を積んだり供養をしたりするわけです。

右手奥に小野篁・冥土通いの井戸
右手奥に小野篁・冥土通いの井戸

8月7日~10日は「六道詣り」で、大勢の人が先祖の霊を迎えにこの寺を訪れます。一般には迎え火を13日に焚きますが、ここの先祖は一足早く帰ってくるわけです。送るほうは16日の、山で大文字などを焼く「五山送り火」で一斉に送ることができます。

冥土の入口とされるこの寺には面白い伝承があります。本堂右手奥には平安時代の官人・歌人の小野篁(おののたかむら・小野小町の祖父)が夜毎ここから冥土へ通って閻魔大王の裁判の手伝いをしていたと言われる「冥土通いの井戸」があります。中を覗いてみたかったのですが近くまで行けず、本堂横の格子戸から遠目に見るのみでした。

小野篁は反骨精神旺盛で、奇行が多いことから「野狂」「野宰相」などと言われていたそうで、身長は六尺二寸(188㎝)もあったそうです。ここから毎晩するすると井戸に入って、閻魔大王に仕え、翌朝京都の西の嵯峨野の寺にある「生の六道」という井戸から出てきて、それから昼の宮仕えに行くという忙しい人だったようです。

京名物「幽霊子育飴」
京名物「幽霊子育飴」

珍皇寺から六波羅蜜寺に行く途中に「幽霊子育飴」の店があります。この飴にはこんな伝承があります。

昔夜な夜な飴を買いに来る女がいて、店主が不思議に思って後をつけると、女は墓場に入っていきました。墓からは赤子の泣き声が…。女は幽霊で、身重のまま死んで墓の中で出産し、赤子を育てるために飴を買いに来ていたのです。店主は赤子を助け出して育て、その子は後に六道珍皇寺の僧侶になったということです。

このような伝承は全国にあるので、身重のまま死んで埋葬された女性がたくさんいたのでしょう。怖いというより切ないお話です。

 

お釈迦様は考えてもわからない死後のことは考えるなとおっしゃいましたが、死後の世界を思い描くことが生活~文化を豊かにしてきたのではないかと思えてきます。夏の京都には生と死の世界がドラマチックに交錯しています。

 


化野念仏寺(京都府)

化野念仏寺の西院の河原
化野念仏寺の西院の河原

京都・嵯峨野にある化野(あだしの)念仏寺に行ってきました。このお寺は伝承によると、約千二百年前、弘法大師空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされています(空海さんはどこにでも現れます)。

その後法然上人が念仏道場を開き、現在は浄土宗のお寺になっています。「あだし」とははかない、むなしいという意味で、化とは生が死に化すということなのでしょう。

 

平安時代以降、京都では東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野、この化野に死者が運ばれ、風葬されました。風葬とは野や山に遺体を置き、そのまま風化させる葬法です。やがて土葬となり石塔が建てられるようになりました。念仏寺では明治中期に化野に散在していた無縁墓(いつの誰のだかわからなくなったお墓)を集め、供養するようになりました。

本堂前の西院(さい)の河原には八千もの石仏や石塔が並んでいて圧巻です。お釈迦様の説法を聞く人々になぞらえて配置してあるそうで、中央のお釈迦様はリアルな姿形ですが、石は風化して丸みを帯び、肩寄せ合っているようにも見えます。

 

八月の地蔵盆の夕刻にはここに参拝者がロウソクを供える千灯供養が行われ、浄土を思わせる幻想的な風景が現出するそうです。私が訪ねたのは雨がそぼ降る少し寒い日。境内には誰もいません。お化けが出そうなところを想像していたのですが、境内はきれいに整備されていて西院の河原もおどろおどろしい感じはしません。これだけ石を集めるのは大変だっただろうなと妙に現実的なことを考えてしまいました。

無縁墓
無縁墓

無縁墓を供養するなんていい風習ですね。西院の河原のほかにも境内には苔むした無縁墓が集められていました。埋葬した場所の目印としてずっと残るように石を建てたのでしょうが、石もゆっくりと風化して自然に還ってゆきます。その辺の石も何百年か前まではお墓だったかもしれません。

 

余部(あまるべ)鉄橋(兵庫県)

余部鉄橋
余部鉄橋

 

「余部鉄橋さよならツアー」に行ってきました。余部鉄橋は明治45年に完成してから98年間使用されてきた山陰本線の鉄橋で、老朽化のため取り壊されて隣にできているコンクリート製のものに架け替えられます。T Vドラマ『夢千代日記』の冒頭シーンで印象づけられ、昭和61年の列車転落事故で一躍有名になってしまいました。

鉄橋に感謝
鉄橋に感謝

私は古い建造物が好きなので一度見てみたいと思っていたところ、列車運行は716日までと聞いて、即ツアーに参加することにしました。当日は同じ思いの人や鉄道マニアが勢ぞろい。現地に着いたらまず下から眺め、41メートル上の駅まで登って列車に乗って鉄橋を渡ります。寒風吹きすさぶ日本海を見下ろす橋のイメージがあったので、工事の青いネットがかかった橋にちょっとがっかり。隣にできているコンクリート製の橋が興ざめ感をあおります。でも赤く、繊細にして力強い構造は美しいものです。

 

たくさんの人が来ていました。普段は住民しか利用しない無人の餘部駅(駅名は旧字です)ホームには人が溢れ、カメラを抱えた鉄道マニア、地元放送局のカメラマンも。余部鉄橋せんべいも売れているようです。

 

鉄橋の下には「ありがとう余部鉄橋」の看板が立っています。鉄橋を見上げて「よく頑張ったね」とつぶやいているおじさんがいました。

列車ファンがなくなる列車を撮影したり、人に対するように手を振って名残を惜しんだりする光景はよく見かけますが、それは動いているものだから擬人化したくなるのも何となくわかります。小惑星探査機「はやぶさくん応援団」ができたのもわかります。でも100年近くとはいえ建っているだけの鉄橋になぜありがとう? 頑張ったのは保守してきた鉄道関係者では? 鉄橋にも100年経つと付喪神(つくもがみ)が宿るのかなぁなどとひねくれ者の私は考えてしまいます。

茅の輪くぐり
茅の輪くぐり

 

ま、去り行くもの、滅びゆくものを惜しむ気持を鉄橋に託しているのでしょう。有終の美というのでしょうか。滅びゆくものは美しい。滅びゆくから美しいのです。ずっとあったら注目されないものでも、なくなるとわかったらひと目見ようと人が押し寄せます。私もなくならないのだったら来なかったでしょう。これも一種の葬送でしょうか。アニメの主人公のお葬式があるのですから物のお葬式もこれから出てくるのでは? 鉄橋最後の日の式典ではお別れ会のように献花したりするのでしょうか。

 

帰りに天橋立の元伊勢籠(この)神社に寄りました。社殿前に大きな茅(ち)の輪くぐりの輪があります。茅の輪くぐりは正月から半年間の罪穢れを祓う夏越しの大祓えの行事で、茅草で作られた輪をくぐると疫病や罪が祓われるとされています。この輪を「みな月のなごしの祓する人は千年の命延ぶというなり」と唱えながら左回り、右回り、左回りの順で「∞」の字を描くように3回くぐり抜けて参拝せよとの案内が出ています。やって損はない、と「みな月の…」は覚えられないのでとりあえずむにゃむにゃと唱えながら回ります。だれも千年命が延びるとは思っていないでしょうがみんな真剣にやっています。

滅びゆくものは美しい、と愛でつつ、自らは滅びないように長寿を祈るという一貫性のないことを何気なくやっていたのでした。


少林山達磨寺(群馬県)

達磨寺本堂
達磨寺本堂

群馬県高崎市にある少林山 達磨寺に行ってきました。お正月のだるま市で有名なお寺です。張子の縁起だるま発祥の地で、本堂横にはさまざまなだるまを集めた達磨堂があります。本堂の 縁には奉納された真っ赤なだるまが山と積まれていて、それが本堂の渋さと対比をなして何とも不思議な光景です。

 

達磨寺は禅宗の一つの黄檗 宗(おうばくしゅう)のお寺で、本堂には北辰鎮宅霊符尊(北極星と北斗七星を神格化した方位除けの守護神)と達磨大師(中国禅の開祖。壁に向かって9年坐禅をしたという)が祀られています。神仏が一緒だから祈願が盛んなのでしょうか。

 

本来仏教では仏様は礼拝の 対象であって祈願の対象ではありません。でも神仏習合が進んだ日本では、お寺も人々の願いを聞き入れる慈悲行の一環として祈願も受け入れたのでしょう。浄土真宗以外のお寺では大体祈願OKです。そうでないと祈祷料やお札、お守りグッズなどの売り上げが 期待できず、寺院経営が苦しくなるという話も聞きました。

 

 

青葉が美しい境内はひっそ りとしていて散策には最適。昭和の初めに来日した建築家ブルーノ・タウトが住んでいたという洗心亭は六畳と四畳半の純和風。見晴らしがよく夏は涼しそうですが冬は冷え込んだことでしょう。

庚申塔
庚申塔

山の斜面にお墓?と思いきや庚申(こうしん)塔です。中国より伝わった道教に由来する庚申信仰では、庚申( かのえさる) の日の晩に人間の体の中にいる「三尸( さんし) の虫」が、寝ている間に帝釈天にその人の悪事を報告しに行くと言われ、それを防ぐため、帝釈天、猿田彦、青面金剛を祀って宴会をして夜通し眠らなかったそうです。200年ぐらい前の文化年間のものが多いので、その頃盛んだったのでしょう。

なぜ塔を建てたのか? 信仰の証しを残したかったのでしょうか。これだけ庚申講をやったのだから三尸の虫は来ない、と塔を建てることで確信したのでしょうか。そもそも帝釈天に報告されると困るような悪事をみんなはたらいていたのかな、と想像がふくらみます。

筆塚
筆塚

洗心亭の近くに筆塚がありました。筆そのもののどことなくユーモラスな形です。

大事に使っていたものは簡単には捨てられず、供養したんでしょうね。今ていねいに埋葬したくなるほど大事な物ってあるでしょうか。

 

物が作られてから百年経つと付喪神(つくもがみ)が物に宿り、人を惑わす、と江戸時代のお伽草子などにあります。物を大事にしないと化けて出るからそれを防ぐために供養するという考えもあったのでしょう。単に大事に思っただけでなく、災厄逃れという意味も込められているのかもしれません。

 


当麻寺練供養(奈良県)

蓮台を持った観音菩薩、合掌する勢至菩薩が登場
蓮台を持った観音菩薩、合掌する勢至菩薩が登場

 

奈良県葛城市の当麻寺(たいまでら)に練供養(ねりくよう)を見に行ってきました。当麻寺は飛鳥時代に創建されたという古いお寺で、西方極楽浄土を再現した「当麻曼荼羅」で有名です。毎年5月14日、当麻曼荼羅の制作者と言われている中将姫の命日に聖衆来迎(しょうじゅらいごう)練供養会式が行われます。『往生要集』を著した平安時代の恵心僧都源信が始めたとされている来迎劇です。

当麻曼荼羅が祀られている本堂を西方極楽浄土に、東にある娑婆(しゃば)堂を娑婆世界(この世)にみたててその間に長い木の橋を渡し、二十五菩薩に扮した人々が浄土から現世に来迎し、中将姫を迎えて再び浄土へ帰っていく様子を演じます。

観音菩薩が中将姫を浄土へ運びます
観音菩薩が中将姫を浄土へ運びます

 

午後4時、稚児を先頭に菩薩たちが本堂から姿を現しました。お供の人に手を引かれてそろりそろりと橋を渡ってきますが、観音菩薩、勢至菩薩だけは違います。お相撲さんがしこを踏むみたいにのっしのっしと練り歩くのです。観音菩薩は蓮台を持ち、その後ろに合掌している勢至菩薩が続きます。あとはさまざまな楽器を手にした菩薩やおなじみの地蔵菩薩…。金色の菩薩面やきらびやかな衣装には迫力があります。怖がって泣き出す子どももいました。

全員が娑婆堂まで渡り切り、しばらくしてから観音菩薩が蓮台に中将姫の像を乗せて戻ってきました。その後ろに勢至菩薩、他の菩薩たちが続きます。西日を受けて菩薩面がきらきら輝き、この世のものとは思えない光景。演出効果満点です。ゆっくりと本堂まで渡り、中将姫の像を安置して浄土往生は完了しました。

 

菩薩たちが西日を受けて浄土に戻っていきます
菩薩たちが西日を受けて浄土に戻っていきます

千年以上続いているこの儀式。昔の人はありがたさに涙を流し、合掌したことでしょう。今は合掌する人などなく、カメラを向けるだけ。仏様を供養するためにお坊さんが撒く散華の花びらを競い合って拾って「これ財布に入れておけば金が増えるんやて」と盛り上がっているおばあさんグループも。

儀式自体は変わらなくても見る人の受け取り方は違ってきて当然です。私はというと、これを仕掛けた人や伝えてきた人の思いを想像して思わず合掌してしまいました。臨終のときに菩薩たちが浄土から迎えに来てくれるという来迎思想がいかに死に行く人や遺された人の不安を取り除いたことか。来迎の様子を説教よりわかりやすい劇に仕立てて一般庶民に見せた僧侶の篤い思い、お面や衣装を保存して儀式を伝えてきた寺や檀家の人たちの思い。ただのイベントになってしまっては惜しいです。

 

これを見れば死を具体的にイメージでき、死に際に慌てることもないでしょう。何といってもありがたい菩薩たちが妙なる音楽を奏でながら迎えに来て、蓮台に乗せて浄土に連れて行ってくれるのですから。怖いことなどありません。あの世は素晴らしいところだとイメージできるでしょう。

子どもの頃、祖母は毎日仏壇にお茶やご飯を上げてお経を読んでいました。「もうすぐお迎えが来る」とか「あの世で死んだ子が待っている」なんて言っていました。この世代までは来迎やあの世をはっきりイメージできたんでしょうね。さて今は? イメージできないから亡くなった人は風になってその辺に吹き渡っていたり、大地に還ってまた蘇るとか考えるんでしょうね。

亡くなる人も遺された人も行き先がわかっていれば安心なのではないでしょうか。死後の行き先がイメージできない現代人は不幸だと思います。宗教が役割を果たさなくなったからターミナルケア(末期の人へのケア)やグリーフケア(遺された人への悲嘆のケア)が必要とされるのでしょう。

 


シルクロードのオアシス都市 ウズベキスタン

ヒヴァの王族の墓
ヒヴァの王族の墓

子どもの頃から「死って何だろう」と思っていました。数十年経った今でもこの思いは変わりません。でもいつの頃よりか、目に見える葬送のかたちを通して死を考えるようになり、死はわからなくても葬送には人間の知恵と思いが凝縮されていることに気付きました。それ以来、趣味の旅行でも葬送ウォッチング。第1回は中央アジアの真ん中です。

 

ウズベキスタンに行ってきました。サマルカンド、タシケント…。一度は行ってみたかったシルクロードのオアシス都市です。ヨーロッパ系、モンゴル系、トルコ系、アラブ系、ロシア系と、すれ違う人の顔がみんな違います。何と120もの民族が暮らしているそうです。女性は若い人でも民族衣装を着け、装飾のついた帽子やスカーフをかぶっている人を見かけます。これぞ文明の十字路! こんなに多人種でも日本人は珍しいらしく、行く先々で携帯のカメラを向けられたり、一緒に撮られたり、人気者でした。聞くところによると眼鏡が珍しいようです。そういえば住民で眼鏡をかけた人は見当たりません。砂漠の民の子孫は目がいいんでしょうね。

 

ウズベキスタンは旧ソ連邦最貧の国と聞いていましたが、果物、野菜、米、肉など食物は豊富で物価は安い。街はどこもきれいに掃除されていて行き交う人々の幸福度は高そう。イスラム国ですがゾロアスター教が地盤にあったり、ソ連統治時代には宗教が禁止されていたりしたのであまり厳格ではありません。お酒も飲まれていました。モスクに行くのはおじいさんばかりだそうです。でも生活規範としてのイスラムの教えは沁み込んでいて、みんな礼儀正しく、親や年長の人を大事にします。タシケントの地下鉄に乗ったら若者が一斉に立ち上がって席を譲ってくれました。日本ではまだ譲られたことはないので「え?」と思いましたが、老人でなくても年上の人には譲るのが当たり前なのだそうです。
どこに行っても子どもの姿を見かけます。それもそのはず、子どもは平均4人。結婚後は親と同居が当たり前、最後まで家で親の面倒をみるので老人ホームはないそうです。しかも医療費、教育費は無料。旅行中具合の悪くなった人が往診してもらったのですが無料でした。ソ連統治時代のよいところは残して急激に資本主義化しなかったのでリーマンショックの影響も受けなかったそうです。

 

こんなに多民族なので葬送もそれぞれなんだろうな、と思いつつタシケント、ヒヴァ、ブハラ、シャフリサーブス、サマルカンドと回りました。
500年ぐらい前にできた城壁に囲まれた古都ヒヴァ。城壁の外壁にカマボコ状のものがポコポコ不規則に盛り上がっています。これは王族の墓。地下水を利用する地域で土葬だと遺体からの水分が水を汚す恐れがあったので、壁面にレンガで室を造ってそこに遺体を入れ、蓋をしました。夏は日向は摂氏50度を超える地域ですから、あっという間に蒸し焼き状態になり、すぐにミイラ化するそうです。生活の知恵ですね。庶民も同様な方法で葬られています。

 

肖像が彫られているイスラムの墓
肖像が彫られているイスラムの墓

タシケントのヤッカサライ墓地。大体のお墓には肖像が彫ってあります。ケンタッキーおじさんのような全身の肖像もありました。これにはびっくり。イスラムは偶像崇拝禁止ではないの? たしかにそうなのですが、これは宗教を禁じたソ連がわざとイスラムの教義に反する肖像を彫った墓を造ったため。統治は70年以上続いたのですっかり慣例化して、今もこの形式が主流です。何でも受け容れる人たちですね。そうでないとこの国ではやっていけないのでしょう。

 

 

日本人墓地
日本人墓地

この墓地の一角に日本人墓地がありました。第二次世界大戦後、ソ連に抑留され、この地で強制労働させられ、亡くなった人のお墓です。ウズベキスタンには2万人以上の日本人が入り、亡くなった817人が国内数カ所の墓地に埋葬されています。現在墓地を管理しているのは当時日本人を埋葬した人のお孫さん。ボランティアです。丁寧に掃除された墓地には埋葬された人の名が書かれた碑があり、日本の政治家が贈った桜が咲いていました。ちなみに日本政府からは管理費は出ていないそうです。どの国のどんな立場の人でも大切にし、丁寧に葬った人たち。葬の心をもった人たち。ここではこんなに大事にされているのに、日本に帰還した抑留者は周囲から「アカ」と呼ばれ、差別を受けたと聞きました。戦争はむごい。でもこの墓地を訪ねて少し救われた気がしました。

 

 

 

 

 

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